⑪軍艦島で当時の生活に思いを馳せる
2つ目の見学広場からは、総合事務所がみえます。このレンガ造りの壁は一部しか残っていないので、サポートがしてあります。沢山の人が出入りする施設だったので、外壁を洒落たレンガ造りにしたのでしょうね。この壁が残されていなければ、本当にすべてが灰色の遺跡になっていたたところです。
この総合事務所には、炭鉱夫が仕事終わりに入るお風呂がありました。浴槽は3つに分かれていて、最初の海水浴槽には服を着たまま入ります。全身汚れて真っ黒なので、そのままドボンという感じでしょうか?3つ目の風呂だけが、真水を使った浴槽だったそう。
軍艦島の規模が拡大するにつれ、インフラもアップデートが必要です。当初は給水船で真水を島まで運んでいましたが、海底に給水パイプが引かれるようになり、そのための穴が防波堤の下に開けられました。電力供給も発電機だけでなく、近くの高島から送電を受けるようになりました。
居住区が一番近くで見れるのは、3つ目の見学広場。肉眼でも壊れた壁から部屋の中を見ることができます。ドキュメンタリー番組で紹介されるような、置き去りにされた家財道具などは遠すぎて見えません。炭坑夫と家族のアパート群は、波が高いときは波しぶきが建物に当たるため、潮降り街と呼ばれていました。重要な炭坑設備を守るためにも、波風が強くあたる島のこちら側にあえてアパートを建てたそうです。これらのアパートが日本初の鉄筋コンクリート製であったからこそ、廃墟として今もすることができています。
平成令和では肉体労働は3kといわれ、キツイキタナイキケンなあげくキュウリョウ安いが加わったイメージがあります。が、軍艦島はそうではありませんでした。お給料は本土の平均的な新卒リーマンと比べると、3~4倍ほどあったそうです。今に換算すると月収70万ぐらいということになります。
日常的に島から出かけることはあまりなく、お給料は良い。そうなると、生活環境を良くしたくなるのが自然な流れ。当時の軍艦島は3種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の保有率が日本一。テレビに至っては普及率100%だったそう。市場では沢山の食材が毎日並び、定期的に行商の業者がいろいろな物を持って訪れていました。
街として必要な機能は大体そろっていました。病院・警察・病院・学校・郵便局はもちろん、お寺・神社・公衆浴場・理髪店・パチンコ・映画館・老人クラブ・隔離病棟までありました。神社は祠だけが残っています。山神祭と呼ばれる盛大なお祭りもあり、神輿が居住区を駆け回りました。木造だったお寺は全壊して、今は名残をみることは叶いません。無かったのは消防署ぐらいでしょうか?おそらく、炭坑夫は消防士とある程度似通った訓練を受けていたので必要なかったのかも知れません。
警官の主な仕事は酒に酔った男たちの、介抱と喧嘩の仲裁だったよう。小さな日本がここにあった、という感じですね。でも、この島に作れなかった物が一つあったとか。はて、なんだろう?答えは帰りに船内アナウンスが教えてくれました。
陸を終えた船に戻った後は、島の周りをゆっくり一周してくれます。軍艦島が本物の軍艦のように一番見える位置から撮影ができます。今回のクルーズは参加者が少なかったので、船の甲板を自由に移動できて最高でした。
長崎港に戻る途中の船内アナウンスで、島になかった物が何だかわかりました。それは、火葬場と墓地です。軍艦島の真横にある島、中の島がその役割を担っていました。軍艦島に上陸した後だからその理由が分かります。高い煙突を作らない限り、狭い軍艦島では火葬する煙が居住区に届いてしまいますね。長い軍艦島の歴史のなかで、一生をここで終えられた方が少なからずおられたのですね。
長崎港に戻って下船する時に、やまさ海運発行のカッコいい軍艦島上陸証明書が貰えます。軍艦島クルーズ、本当におすすめです。歴史や廃墟が好きな方は、ぜひ訪問して下さい。
さて、まだ時間は11:30amぐらいです。これから昨晩発見した、復刻版の出島に港から歩いて向かいます。
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